Celtic Chain 1~01
起きたという事実は、どこで確定するのだろう。
俺は眼を開いた時だと思っている。その時になって初めて、散漫とした意識
が現実を捉えるからだ。なら、今のこの状況はどう表現すればいい。信じられ
ない程寝心地の良い布団の中で考えるが、答えは無い。いや、眼を開いてみれ
ばいいという答えははっきりと認識しているのだが。どうやら俺は、ただ恐い
だけらしい。この、予感が。
たしかに俺は炎上するトラックでガードレールに突っ込み、崖下へと転落し
たはずだ。それがなぜ、こんな豪華なベッドに寝かされているのか。考えられ
る原因は、一つしか思い至らなかった。それを頼りに、俺は瞼を開いた。
「あら、起きたのね」
その美声が、周囲の状況が、唯一の希望をあっさりと砕いてくれた。奇跡的
に生還し、病院のベッドに寝かされているという希望を。
最も、あの区域には病院は無かったはずだ。あったとしても、立派な建物に
医者五人などという、地方財政の破綻の具現のような病院だけだろうが。こち
らは豪華で、向こうはオンボロ。
だが、俺はオンボロを選びたいと、本気で思う。
「泥棒さん、黙られても困るのだけれど」
泥棒? いきなりそんなことを言われても、何が何だかわからない。未だに、
寝かされているのは金持ち優先の超豪華病院だと思いたいくらいだ。
「いえ、盗みに入ってベッドで眠る泥棒なんていないわね。なら、私の私物を
漁りに来た変態さんかしら」
「いきなり変態扱いするな・・・・・・。俺も状況を掴めていないんだ」
そう、本当に状況がわからない。まるで王室のような部屋のベッドから、
精霊とすら思えるような美女に向かって反論しながら思う。状況的に言って、
たしかに俺は怪しいだろう。けれど、どう怪しいのか自分でもわからないのだ。
だが、それでも知らぬ間に変態にされるのは困る。
「・・・・・・どういうこと?」
「俺はトラックで事故に遭い、海へ転落したはずだ。それが病院ではなくこん
な所で寝かされていたのでは、驚いて当然だろう」
「・・・・・・『とらっく』って何?」
待て。何かおかしくないか? 日本語を話す者がトラックを知らないとは
思えないし、トラックが存在しない国の人間が話す日本語は、こんな綺麗な
ものではない。ならば、ここは、そしてこの女は何なのだろうか。
「悪いが、何か書物を見せてくれないか。何でもいい」
「まあ、いいけれど。これでいいかしら?」
「ああ、すまないな」
予想通り、そこに並ぶ文字は見たこともないものだった。屋敷にいた頃、俺
は多くの言語を学んだ。その中のどの言語で使われている文字とも異なった
ものが、その書物には記されていた。さらに、これは本当に不思議なことだが、
その文字の意味ははっきりと理解できる。一日一日の出来事が事細かに書かれ
ている。文体などから考えると、日記のようだ。俺は、はっきりと確信した。
「どうやら俺は、異世界から突然この世界に転移して来たらしい」
自分でも滑稽だと思えるが、風になびくカーテンの向こうに広がる景色が、
その事を肯定していた。溢れんばかりの大自然、それを破壊するのではなく共
に生きることができるように設計された街。そして、動力など見当たらないの
に動く様々な器具。これでは、否定のしようがない。
学者達が唱えていた、多元宇宙説が証明されたわけだ。戻って報告してやれ
ば、どれだけ喜ぶだろうか。
「頭は大丈夫?」
「一応な。まあ、いきなりこの話を信じられても神経を疑うが」
「つまり、あなたはそれが真実だと思っているわけね?」
「そうだ」
その言葉以降、互いに押し黙る。言葉数は少なかったが、これ以上一方的に
何かを話しても無駄だ。相手の出方を待つしかない。
「・・・・・・部屋を用意するわ。しばらく、そこで生活してもらえるかしら。対外的
には、私の客人ということで」
「信じるのか?」
「いいえ? ただ、その方が面白いだけ。本当に異世界の住人だったら最高だわ」
なるほどね。このお嬢さんは、とんだ破壊思考の持主らしい。
「あ、そうそう。私の客人だから、比較的自由にできるわ。一応姫だからね」
「一国の姫様がお前みたいなのでいいのか」
「そんなこと知らないわ」
確かにこいつは破壊思考の持主だが、いやだからこそ、暇はしそうにないな。
「私はエレイン・カフヴァール、この国の王位継承者よ。あなたは?」
「桐生・・・・・・」
いや。ここはもう、俺の世界じゃない。この名はもう、使わない。
「ヴォルグ。ヴォルグ・スカーサルーグだ」
*****
空が、鮮やかな赤へと塗り替えられていく。
エレインが戻ると言った時間から、既に数刻が経とうとしていた。
王女としての立場上、しなければならないことが多いのはわかる。俺が滞在
するための雑事もあるだろう。
「だからと言って、これは無いだろう」
俺だって年頃の男だ。長時間女の部屋で一人にしないで欲しい。出会って
から間もないが、彼女にはその辺りの機微を期待できないと知った。
ため息を吐き終わった頃、扉の向こうに人の気配を感じた。どうやら、
やっと戻って来たらしい。
「し、失礼します。入ってもよろしいでしょうか」
その声は、想像していたものとはかなり異なっていた。エレインの、聖女と
さえ思うような美声とは違う。可愛い、親しみの持てる少女のものだった。
「初めまして。僕、あなたの世話役を命じられました、ネフ・リーゼンと言い
ます。以後、よろしくお願いします」
扉が遠慮がちに開かれた後に姿を現したのは、十六歳程の青年だった。
「……すまない」
「な、何がでしょうか」
どうやらこの青年、ネフの声変わりは通常よりも遅いようだ。変装しさえ
すれば、敵国への潜入任務もこなせるだろう。微妙な顔をする俺を、ネフは
不思議そうに見つめながら言う。
「エレイン様は、しばらくお戻りになれないそうです。ヴォルグ様の居室は
ご用意しましたので、こちらへどうぞ」
戻れないなら、俺の事を迂闊に話すのはやめておこう。どんな問題が生じて
しまうかわからない。
エレインの部屋を出てから、しばらく歩くことになった。階段も、二度程
使っただろうか。この階は赤絨毯も敷いておらず、部屋の扉も何処と無く
豪華さに欠ける。やはりエレインの暮らす階は特別らしい。ひょっとすれば、
彼女以外には生活している者はいないかもしれない。
案内された場所も、雲の上の扉ではなく、人々が目標にするレベルの扉が
配置されていた。
「こちらが、ヴォルグ様に生活して頂くお部屋です。何か不都合は
御座いますか?」
「いや、特にはない」
文句はない。若干上品過ぎるが、問題にする程ではないだろう。
「そうですか。なら、ひとまず安心です。基本的にはこちらから出向きます
が、何かありましたら、使用人達に声をお掛け下さい」
その言葉に、違和感を覚える。
「君は使用人じゃないのか?」
「ええ、私は衛士です。新米ですけどね」
そういってネフは、苦笑いを浮かべた。新米と付ける程だから、使用人
よりかは身分が上なのだろう。このような仕事を押し付けられる事から、
高い身分とは言えそうもないが。
「そうそう。前にこの部屋に住んでらした方が魔導師で、魔術的なものが
残っているかもしれませんが、危険ですので触れないようにして下さいね」
「……何?」
突然聞いたことも無い言葉が飛び込んできた。俺の頭は思考停止に陥って
しまう。次のネフの言葉が無ければ、いつまでも固まっていたかもしれない。
「どうかなさいましたか?」
恐らく、この世界では常識なのだろう、魔導師の存在というのは。ここで
動揺していては、怪しまれる要因を増やすだけだ。
「いや、わかった。気を付けよう」
なんとかそれだけを言葉にし、『それでは』と去っていくネフの後姿を、
呆然と眺め続けた。
薄暗い部屋の中で、俺は椅子に倒れ込むように座った。こんな様子の俺で
も、いきなり違う世界に放り込まれては緊張する。繋がりを感じられるもの
など、何もないのだ。それも当然だろう。一人になり、それがようやく和ら
いだ。
今は薄暗くとも周囲の様子はわかる。しかし、後一時間もすれば闇に包ま
れてしまうだろう。ここには電気などない。せいぜい、耐久時間の長い蝋燭
があるだけだ。
「まあ、夜更かしできない分、健康的な生活を送れるのかもしれないが」
できるのは、魔術を操ることのできる一部の人間だけだろう。
そう、この世界には魔術が存在する。俺の世界ではその存在は不透明
だったが、ネフの様子を見る限り、この世界では当たり前の存在だ。
「エレインに聞きたいこと、増える一方だな……」
一日では聞き出せない程の疑問が、今の俺にはある。彼女は多忙である事
から少しずつ、日を分けて質問するのが賢明だろう。
その時俺が振り向いたのは、何かを感じてのものではない。ただ、
なんとなく振り向いてしまっただけだ。
そこにあったのは、本。古く時代を感じさせる、そんな代物だった。しか
も、その存在は酷く曖昧だ。確かに本はあるのだが、自信が持てない。いや
むしろ、その存在感が強すぎるために、そのように感じるのかもしれな
かった。そしてそれは、俺へと意識が向けられていた。
飲まれそうになる感覚を振り払い、ベッドへと身を沈める。
――今日は色んなことがありすぎた。すんなり眠れるだろう。
その思い通りに、俺の意識は急速に堕ちて行った。
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